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なんてったって楳図かずおである。わたしは子どもの頃「へびおんな」その他の作品でさんざん恐ろしい思いをし(「なんで読んでしまったんだろう!」と何度後悔したことか)、トラウマになっていたので、まことちゃんがブームになった時もスルーだったし(だって、ギャグ漫画とは言えやっぱりブキミだったし)、この「真悟」にしても、そういえば友人が騒いでいたのを覚えているけど、当時は興味を持たなかった。でも、大人になってから徐々に(おそるおそる)楳図作品に触れるにつけ、なんとすごい作家なのであろう、と感嘆し、これだけ他の追随を許さない表現者であれば、どんなに本人が奇妙であろうが、赤白縦じまのおうちを建てて景観を害しようが、しかたないんじゃないのかな、と納得するまでに至っていた。 今回のこちらはビッグコミックスペシャルから新たに発刊された楳図選集とのこと。表紙の絵を見たら買わずに通り過ぎることが出来なかった(外苑前Ciboneにて)。イントロダクションはまことちゃん風ギャグタッチで始まるのだが、だんだんすごいことになって行き、3巻まで読んだらもう怖くてダメ。悪い夢を見そうなので、これ以上読み進めるのはやめときます。 2巻を占める東京タワーのストーリーも圧巻。手に汗握ります。 怖い話が人一倍ニガテな反面、怖いという感情にはとても興味を持っており、人が怖いと感じる感覚には何かとてもプリミティブな秘密が隠されているようにも思います。昔書いた「怖い本」談義はこちら。 http://homepage3.nifty.com/callate/horror.htm すでに「木曜日の男」という邦題で何度も邦訳が出ている探偵小説の古典。このたび原題The Man Who was Thursday に忠実なタイトルで新訳が出たとのことだ。「木曜日の男」ではスルーし続けたに違いなかった私も「木曜日だった男」では、ふと興味を持たずにはいられない。だって、不思議なタイトルですもの。19世紀末と思われるロンドン、芝居の書割のような舞台(ちょっと映画「カリガリ博士」のよう。でも、思い切り毒々しいテクニカラーで。)を背景に物語は始まる。舞台の中央には無政府主義者のグレゴリーと、法と秩序を愛する主人公サイムのふたり。このふたりの論争からしてかなり可笑しいのだけれど、最初は笑っていいのかどうか分からず遠慮しながら読み進める。おおまじめなつもりの古典が、現代の読者から見るとおかしいことってよくあるので。 その後のストーリーは古典に似合わずかなりのアップテンポで急展開。実は警察のスパイだったサイムが無政府主義者たちの秘密基地にもぐりこみ、アナーキスト達をまんまと騙してその中枢にもぐりこむや楽しい冒険活劇は早くもトップギアに。サフランパークから居酒屋へ、そして居酒屋の地下に築かれたアジトを出てからは、あちこちの市街をめぐったあげく、ロンドンを離れてカレー(フランス)まで繰り出し、ロンドンに戻ってきたと思ったら動物園に迷い込み・・・。 副題に「一つの悪夢」とあるので、そのような心構えで読み始めた私の予測は見事に裏切られ、年末年始就寝前の私の読書はくすくす笑いの連続で、となりで寝ているかえるさんが「どうしたの?」といぶかることもしばしばでした。 細かいことを言うとネタバレになってしまうので控えますが、この物語にはユーモアとサプライズとそれ以外の仕掛が満載。ばつぐんのセンスを持ったビジュアル作家の手で、いつか映画にしてほしい。不条理やナンセンスギャグにも満ちているのでアニメーションがいいのでは、とも思いつつ(トムとジェリーみたいな追っかけっこシーンもたくさんあるし)、VFXを駆使した実写でもいいかも知れません。 南條竹則さんの訳からは、原作の文体のエッセンス(特にそのユーモア!)もほの見えてとても良い。これこそ私の考える由緒正しい(?)ブリティッシュなユーモアである。南條さんという人は「ドリトル先生の英国」という新書の著者で、この本は以前買った記憶があるので、今度本棚を探してみよう。ブリティッシュといえば、この物語には月曜日から日曜日まで、総勢7名の紳士ばかりが登場する。その7人の追いつ追われつがストーリーの骨格となっており、全編ボーイズクラブなところも大変英国風だ。 チェスタトンはブラウン神父の探偵小説シリーズの作家として著名。こちらもさっそく読んでみます。 中野ブロードウェイの古本屋で100円で売られていた。タイトルも装丁も良かったし、第一松本清張って翻訳もしてたんだ!というのが新鮮で即買いしたもの。記憶の端に、そういえば北京原人の頭蓋骨だかなんだかが行方不明になったという昔聞いた話を思い出しながら。ニューヨークのジャマイカ鳥獣保護区湿地帯で、中年婦人の死体がバードウォッチャーにより発見された、という新聞記事から始まるこのミステリーは、第2次大戦を挟んだ時代の、中国と米国を主な舞台としたもので、作者の想像の産物ながら限りなくノンフィクション風。アメリカ人、ドイツ人、中国人に日本人、と戦争をきっかけにさまざまな国籍の小悪人な小市民(または軍人)達がニアミスや小競り合いを繰り返しながら、それぞれの皮算用が絡み合って、誰も意図しなかった北京原人の頭骨の紛失を招いた、という皮肉な筋立てだ。 1941年12月、日米戦が必至の情勢となっていた頃、北京原人の米国への発送が秘密裏に行われた、ことは事実なのだそうだが、その後この荷物は蒸発してしまい、さまざまな憶測や小説の題材にもなっているというもの。 作者のクレア・タシジアンは若いころ北京協和医科大学の解剖学教室で働いており、北京原人の化石骨の積み出しの際荷造りを担当した一人だとのこと。登場人物の設定も、当時北京原人の積み出しに関わった周囲の人々をモデルにしており、そのため一層この作品をリアルなものにしているらしい。 実際の化石骨は本書の結末で語られるような、そんなことになってしまったのか、または・・・?今や歴史上のミステリーですね! 去年ヒースロー空港で「BUY 1 GET 1」(2冊で1冊)キャンペーンに乗せられて買ったペーパーバック。いかにも東欧チックな表紙のイラストがとてもかわいらしくて、思わず手にしたものだ。本書はイギリスの地方都市(ピーターボロー)を舞台に、ウクライナ系移民家族に起こったある事件を描いたユーモラスな物語。主人公はNadia。40代後半の仕事を持つ女性で、夫(Mike)、娘(Anna)の3人暮らし。Nadiaには年の離れたVeraという姉がいる。Veraには娘がふたり。離婚をしていて夫はいない。この姉妹はしばらく前に母親を病気で亡くしており、実家には84歳の父ニコライがひとりで暮らしていた。ついでに言うとNadiaとVeraの間にはいろいろあって、姉妹仲はうまく行っていなかった。 物語は父から娘Nadiaへの電話で幕を上げる。父は娘に宣言する。「結婚しようと思っているんだ」と。84歳の結婚はイギリスでも物議をかもすようだが、詳細を追求してブツギはさらに大きくなる。なぜなら、その結婚相手は36歳のウクライナ女性で、ウクライナに住んでいてビザはないとのこと。しかも息子がひとりいるという。 当然周囲はこの結婚に反対するが(金銭目当て、ビザ目当てに違いない!)、外野の反対意見もむなしく話はとんとんと進んでしまい、あっという間に花嫁がその息子とともに迎え入れられることになる。 ここまでのあらすじは背表紙に掲載されていたので読む前から了解していたが、この後はウクライナとイギリスの心温まる交流が展開されるのかと思っていたら、そこはイギリス発の辛口ユーモアでちょっと違っていた。 罪の意識があるせいか、父はなかなか花嫁を娘達に紹介してくれなかったが、やっと会ってみると大変なグラマラス美人。しかも、わざわざ自分をいつわる性格ではないので、大変な強欲であることもほどなく露呈。そして、色ボケで結婚してしまった84歳の父が大変な目に遭う、というお話である。このお父さんがまた、カクシャクとした元気で変わり者のおじいさんで、さんざんな目に遭いながらも負けてはいない食わせものです。 一家を上げての大騒ぎに巻き込まれていくうちに、母の思い出があったり、姉妹の間にあったわだかまりがほぐれていったり、一家が戦争を生き延びて祖国を捨て、イギリスに移り住むまでの歴史が明かされたりする。 そして日頃リベラル思想を標榜し、移民の味方という立場をとっていたNadiaの心の葛藤があったりもする。(自身移民2世という立場だし。)そんなNadiaを見守るMikeは、主要登場人物の中で唯一ウクライナの血を受けていない存在。このMikeは父ニコライのとても良い話し相手でもあり、良きダンナさんだ。イギリス版マスオさんだな。 一方、作品のブラックな魅力になっているのはウクライナからやって来た悪妻Valentinaの悪女ぶりである。彼女の強欲ぶりは、浅ましくストレートで、それが片言の不自由な英語によってさらに凄み(とおかしさ)を帯びる。84歳の夫を死に損ないと呼ばわり、ほとんど暴力をふるい、しかも夫以外の男と見れば色仕掛けにも余念がない。おっとりマスオさんのMikeすら、最初の対面では魅了されかかったくらいの威力である。そのわりに息子のスタニスラフは結構素直でいい子なんだけど。 Valentinaは84歳の夫の生き血を吸ってさらに太っていくのだが、太れば太るほど女っぷりを上げて男を魅了するという法則がそこには存在している。(世の女性の皆さん、ダイエットばかりしている場合ではありません。) タイトルの「トラクター」は、父ニコライが元エンジニアで、余生の仕事として東欧のトラクターの歴史を執筆しているところから来るのだが(なので、作品中時々この原稿が挟まれる・・が正直この部分はちょっと退屈で、そのために何日も読書が中座してしまうこともあった。)、そして、彼はどんなに虐待されても情熱を込めて本を書き続け、終盤この原稿は完成を見ることになるのだが、「トラクター」って実はValentinaの比喩なのかもしれません。 ウクライナ人同士の会話では、Mikeの名前までウクライナ語的に語尾が変換されているシーンがあって、これってヨーロッパでよく体験する楽しいことのひとつです。そういえば、知り合いのスペイン人は、フランス人ギョームのことを、「ギジェルモ!」とスペイン語変換してはばからず(わたし達日本人からしたら全く別の名前ですよね)、ギョームは呼ばれるたびにちょっとだけむっとしていたような気もします。 作品を通して、こんなにさんざんウクライナに触れていながら、最後まで地図でウクライナの場所を確認しておらず、作者やウクライナの人々に対して心苦しく思っています。あとでネットで確認します! ※後日ロシアとその周辺諸国に詳しい友人と会いました。彼女によるとウクライナは豊かな穀倉地帯だそうです。(あと、キエフ・バレエ団で有名だったんですね!)それを聞いて、作中描かれている、国を捨てた人々の祖国への思いが一層しのばれるように思いました。 女は「女」をまとっている。かつてボーヴォワールが世間を騒がせた有名なフレーズ「女は女に生まれるのではない、女になるのだ」(だっけ?枝葉は違うかもしれないが大差はないはず)とニュアンスや着地点はかなり違うけれど、前提は似ている。本書はこの現代版「第二の性」的出発点に立って、女装タイプを大きく9つ(または10)に分けて小気味良いリズムでその実態を解説したり分析ししたりしたもの。内容は「女装する女」「スピリチュアルな女」「和風の女」「ノスタルジー・ニッポンに遊ぶ女」「ロハス、エコ女」「デイリーエクササイズな女」「大人の女になりたい女」「表現する女」「子供化する女」「バーター親孝行な女」。そして、しりあがり寿さんのイラストが各章のカバーを飾っており、結構クスリと笑えるひとコママンガになっている。 マンガ「働きマン」(安野モヨコ原作)のテレビドラマ化はどこで間違ってしまったのか?原作が持つ仕事女のリアリティーは、主人公が彼氏とデートしたり、イケメンと会ったりしたときに女っぷりを上げるための「女スイッチ入ります」の方にあったんだそうだが。テレビドラマの企画制作者はたいてい男が多いだろうから、女性の内面には(隠れていたとしても)「女」性があることを信じて疑わなかったために、完全な誤読の上に立った「男スイッチ入ります」というセリフを主人公に何度も叫ばせてしまった。・・・んだそうだ。なーるほど。 かつての自分にはおやじギャルの側面があったかもしれないが、時代はさらにずっと先に進んでいるようだ。たしかに「女文化をネタ」に毎日の人生を演出するのは楽しいだろう。残念ながら今の私は上記カテゴリーのどれにも当てはまらないような気がしているが(あ、でもこのブログを書いているから「表現する女」かな?)、たまには女スイッチを入れてみよう。 これを書いてて思い出したけど、先日(3/7)東京ガールズコレクションに行って来た!プレスの立場で行ったから良かったものの、一般客に混じったらいたたまれないくらい浮いたに違いない。というくらい、観客席はギャル、ギャル、ギャル、そしてまたギャルの大洪水。ごくまれに、彼氏として連れて来られたに違いない男子も見かけることがあったが、まるで白い羊の群れにまぎれた黒羊のように、やっぱりわが身の置き所に窮しているように見えた。そして、会場は「これでもか!!」というくらい、女の子の表現が満載。キラキラ、ピンク、ハート、花模様・・・。私もいつの間にかショーのコーフンに巻き込まれ、魂の底から叫んでいました。「そう、そう!わたしはこれが欲しかったんだわ!」そう叫ぶわたしの中には、まさにひとりのオカマが潜んでいたような気がします。 この本で言いたいことは、誤解を恐れずに言えば、女はみんなオカマだということです。そして、それは(ある意味)正しいのだと思います。 モラヴィアは大変好きな作家。かつては日本でも人気の時があったようだけど、最近では大変残念なことに、代表作である「倦怠」と「無関心な人々」しかたぶん発行されていないような状況だ。だから、スペインで本屋に行くと必ず彼の作品を探してしまう。スペインではまだまだ棚に置かれているし(たぶん、かの地ではまだ文芸というジャンルが幅を効かせているから、という理由もあるだろう)、それにスペイン語翻訳はたぶん原作のイタリア語からかなり近いはずな上、邦訳されていない作品に出会うことも出来る。そして、モラヴィアは大変多作な作家である。わたしはこれまでの人生できっと十指に近い(または余る)作品を読んできたけれど、それでもまだ探す楽しみがたっぷりある。今回読書したのは、ゴダールの「軽蔑」で結構知られていると思われる作品だ。9月にバルセロナに行った際、お気に入りの書店で見つけてきた。モラヴィアは映画の原作や脚本でも大変活躍した人だけど、「軽蔑」は映画のために書かれたものではなく、映画に先立ち1954年に発表されている。 映画でもかなりのモラヴィアトーンが全編を覆っているのだが、なんせブリジット・バルドーの美しさが目を見張るほど際立っており、どうしてもその印象が強い。(映画もすばらしいです。) どんなお話かというと、登場するのは若手の脚本家である主人公のリカルド、妻のエミリア、そして映画プロデューサーのバティスタ。ストーリーはほとんどこの3人によって進行する。それから、チョイ役で登場するドイツ人の映画監督ラインゴールド、こちらもかなり強烈な個性を放っているし、作品上なくてはならない存在だ。 リカルドはややトウの立ちかかった文学青年で、本当は演劇の脚本を続けて行きたかったのだが、妻との幸せな生活を守るために、本意ではないけれど金になる映画の仕事に手を染める。そのおかげで、エミリアが涙ぐましいほどに切望していたマイホームも手に入れて、ふたりはさらに幸せになる予定だった。しかし、そうこうしているうちに、確信していたはずの妻の愛が心もとなくなり、気がつくとその愛が「軽蔑」に変わっている・・・。その理由は最後まで明確には明かされず、物語の全編がリカルドの不毛な自問自答から成り立つ。「なぜ?」のめくるめくスパイラルが、前半はローマの都市生活の中で、後半はカプリの目のさめるような青の中で展開されることになる。 いつもながら、物語の構成もしっかりしており、悶々としたモノローグを読み進めながら、読者は飽きることもない。終盤にはちょっとしたサプライズも用意されている・・。(ちょっとコワイです。) モラヴィアの作品は全てが全てそうだけど(アフリカの旅を綴ったエッセイだけが例外で)、その悪意を孕んだ冷徹な人間観察が、ぞくぞくするほど面白い。写真を見ると、晩年のものだからなおさらかもしれないけれど、一筋縄ではいかないような面持ちが、わたしごときにはとても太刀打ちできない強烈なじいさん、という印象だ。 そして、こちらは映画の方の「軽蔑」。何度も見たい作品なので、購入している。ゴダール初期の作品で、原作を読んだあとに改めて考えると、原作を丁寧に解釈していることが分かる。大変美しい映画です。 ![]() 忙殺の日々を過ごしているうちに、最後に投稿してからこんなに日数が経ってしまった。投稿しなかっただけでなく、長らく読書の喜びから遠く隔たっていたのだ。そして、忙殺の日々から解放されて真っ先に読んだのがこちらの本。アマゾンで衝動買いだ。 「女はいまや、ひとりで地球上のどこにだって行ける。(ザンビアだろうがハイチだろうがひとりで行ける。)女ひとりの外食もまた、ごく普通の行為。しかし、その行き場が寿司屋となると、相変わらず敷居が高い。なぜか?」 という問いかけから始まるこの企画。正直、すし屋は死角というか、ひとりで入ろうなんて考えたこともなかったけれど(ひとりランチで回転寿司には行くぞ)、たっしかに敷居が高いな、なんでだろ、ということで読んでみる。 別の章で語られる定義によれば、「単なる外食屋でありながら、職人と常連、作法と根深い日本的男社会の和によって独特の空間が展開されていく中(=つまり寿司屋)に、ヘンな女ひとりがフリで入っていくところの摩擦」を描いたエッセイとも。または、「日常に最も近くて困難な“冒険”」とも名づけている。 著者の湯山さんは40代、シングル、女性。「クラブカルチャー」などの本も執筆しているかなりエッジーでなおかつ聡明な方かと思われる。彼女はある日、疲労のために判断力が鈍ったせいか、ふとひとりで立ち寄ってしまった高級目なすし屋のカウンターで、かなりいたたまれない経験をしたことがキッカケとなり、女ひとりで高級すし屋へ行ってはコラムを書く、という雑誌の企画を受け持つことになる。その連載をまとめたのが本書だ。 その後ミシュランの星とりでさらに話題になった銀座「すきやばし次郎」や、軍艦巻きで有名な銀座の「久兵衛」、青山「NOBU TOKYO」、上野毛「あら輝」などなどの高級寿司店に、女ひとりで颯爽と出向いて行っては(予約をして、だけど)、軽快でユーモラスにして鋭い筆致でばんばん切り込む。 その観察眼はまずすし屋がたたずむ背景を語ることから始まり(東銀座、六本木ヒルズ、奥沢、浅草などなど)、すし屋の高い敷居をまたいだ後は、すし屋という独特な空間にうごめく人間観察に余念がない。その生態観察の楽しいこと! そしてもちろん板前さんやご主人との緊張感をはらんだやりとりがあり、そして味覚の(めくるめく)体験がある。 それにね、笑いながら読んでいると、いつのまにやら最初の命題の「なぜか?」の回答もおのずと見えて来るんである。その上、なぜ寿司職人には女性がいないのか、の理由についても。(手が暖かいので、云々、という例の屁理屈ではなくて。)その理由に行き当たると、一応フェミニストで、日本の女性の社会進出の遅れを嘆く私ではありますが、やっぱ寿司職人は男の聖域でもいいのかも、と思えて来る。 一見すし屋をテーマにしていながら、これはむしろ「すし屋」という極上にして独特のフィルターを透かすと見えてくるソシオロジーの一片と呼んだら良いかも。 読後感は、しっかしたまには金に糸目をつけずに高級寿司が食べてみたいものだ、というところでした! 意味はといえば「ウチのクレイジー娘」かな。そういえば昔「家の馬鹿息子」(サルトル)という本もありましたが。今回のスペイン行きの機上のお供はこの1冊に決まり。Rosa Monteroはスペインの文壇で活躍する作家兼ジャーナリスト。マドリッド出身で作品の多くがマドリッドを舞台にしているため、親しみを感じてこれまでにも何冊か彼女の作品を読んできた。(「Bella y Oscura」「La Hija del Canibal」など。)今回のこちらは数年前に買ってあったもので、フィクションではなくエッセイである。表紙とタイトル、それに背表紙のテキストから、文学少女で変わり者だった子供時代の回想なのかな、と思っていたけれど、読んでみたら、もっと硬派な文学論だった。(でも、表紙の写真は作家本人の子供時代のようである。) 内容は文学について、創作について、そのパッションと狂気についての作者の考察である。そうはいっても最初の1行が「わたしは、その時々の男と著作によって自分の人生を整理するクセがある」というものだから、堅苦しい作品ではなく、むしろ本音トークに近い。 自らの創作活動を振り返るとともに、多くの作家や作品が登場するので、それらの名前を浴びているだけで、本好きとしては幸せ。イタロ・カルビーノ、アルチュール・ランボー、メルヴィル、ゲーテ、「ドン・キホーテ」「アンナ・カレーニナ」、「シエラザード」、フォークナー、ポール・セロー、カポーティ、カフカ、ジョージ・エリオット、カーソン・マッカラーズ、ユルスナール、ゾラ、フィリップ・K・ディック、ナボコフ、などなどなど。 自作の「Bella y Oscura」の誕生秘話もなかなか面白く(ボストンで夕暮れ時に道に迷った怖い思い出の描写は、昔々読んだこの本の風景をありありと思い出させてくれた)、カーソン・マッカラーズの「悲しき酒場の唄」誕生についてのくだりも面白い。ブルックリンのカフェで見かけた奇妙なカップル-大柄で屈強な女性と、その足元にまつわりついているせむしの小男-がこの風変わりな作品の強い引き金になったという。Rosaは別のページで、「それにしても、あのブルックリンのカフェにいた“現実の”大女と小男はその後どうなったんだろう」と思いを馳せる。 スペインの女性作家代表のひとりとしての役割を担わされてきたであろう彼女だけに、「女性文学」というくくりに対する憤りも強い。「女性文学」なんてカテゴリーはナンセンス、それではなぜ世の中に「男性文学」というジャンルはないのか?・・・まさにその通り。 おんなじ考え方の延長で、わたしはあんまり「ロシア文学」「フランス文学」といった地理的分類も好きではない。もちろん、便宜上分類は必要だからしかたないし、国籍が違えば人のプロトタイプの違いもあるのだから、全くナンセンスとはいえないけれど、例えばわたしは「スペイン文学が好き」かと聞かれればよく分からないし。 世の中では作家や評論家がもっとステキな文学分類の試みをさんざんしていて、そのことについても後半に触れられる。 「女性文学」への憤りと同様にRosa Monteroは「作家の妻」の存在に対してもシンラツだ。「作家の妻」代表格として上げられるのはスティーブンソン(「ジキルとハイド」)の妻や、トルストイの妻など。双方とも悪妻として歴史に名を残しながら、夫の出世のために自らを犠牲にした女性だけれど・・それにしてもスティーブンソンの奥さん(Fanny Vandegriftという名前)は悪評とはウラハラにひょっとしてすごい進歩的な女性だったみたい。(3回冒険的な結婚をしていて、回を重ねるごとに夫が画期的に若くなる。)ふーん、と感心するような、文学エピソードも満載。 小説は「都市」のようなもの、という比喩も良い。無軌道に増殖していくものを、なんとか区画整理しようという(不可能な)試み。 自身ジャーナリストでもある彼女が「文学とジャーナリズム」の違いについて云々するくだりも面白い。ジャーナリストは「自分がすでに知っていることについて書く」職業だが、文学は「自分が知らないということを知っていること、について書く」営みだと。 「La Loca de la Casa」は作家の頭の中に住んでいる小鬼(daimon)のようなものである。「小人」のイメージにとらわれ続けている彼女としては(作品にも必ず「小人」が潜んでいる。)、そのイメージはたやすく「小人」とオーバーラップする。そして、お気に入りの一方には「クジラ」がいる。 イタロ・カルビーノ経由で知ったという「湖に恋をしてしまう王様」の話がおかしくもやるせなく、とても魅力的。それから、最終章で語られる修道女の小話も非常に良い。 ところで、Rosa Monteroはこの作品の中にひとつのしかけをしている。それは3度語られることになる、彼女自身のかつてのアバンチュールについてである。時は1974年。フランコ政権崩壊前夜のマドリッド。国外から流れてくる自由の風と暗く重苦しい空気の狭間で、映画雑誌のエディターとして、23歳の熱い夏を生きていた彼女の出会った恋の話。 そんなこんなで「やっぱり物語って、文学って本当に素晴らしいな」と、自らの「本の虫」加減(スペイン語ではBicho lectorっていうんだ。Bicho=やっぱり虫)をしみじみと肯定していると、いつのまにかもうすぐ成田に着陸なのであった。 ・・・ *カーソン・マッカラーズ 「悲しき酒場の唄」 →こちらは昔読んだ「La Hija del Canibal」 ![]() こちらはフランス語の原版だけど、「暗いブティック通り」というタイトルで日本語訳も出版されている。「冬のソナタ」の原作者は、この作品からあのヒット作を思いついたらしい。とはいえ、主人公が記憶喪失者であるということのほかに、きっとそんなに共通点はないと思う。(「冬ソナ」をちゃんと知らないので断言は控えますが!)フランスには「モディアノ中毒」という言葉がある、と聞いて以来、この表現が大変気に入っているが、なにせこの独特の宙ぶらりん感はハマるとほんとに中毒になる。モディアノの作品は常にミステリ(それも極上の)の様相を帯びてはいるけれど、腑に落ちる推理も、明快な事件解決も待ってはいないので、ものごとが白黒ハッキリしてないと気が済まない人には不向きです。モディアノの描く世界はニュアンスに満ち、影や気配が彷徨し、時がもつれ、道に迷い、ふっつりと明かりが消えて、突然置いてきぼりにされる。 この作品の主人公中年男のGuyは過去の記憶を失っている。パリの探偵事務所で働いていたが、ボスの引退で閉業したのを機に自分の過去を探り始める。徐々に追い詰めていく過去の断片は、しかし最後までひとつの絵にはならない。過去の自分と思われるイマージュは、時に三人称で表現されて、それが記憶なのかフィクションなのか定かでない。そして時々それは誰か他人の記憶の片隅にある自分であったりもする。 「国境」という言葉がちらつく。国境で何かが起こったらしいのだ。そして、妻だったらしい女性Deniseとの別れもおそらく。彼は少しずつ思い出す。偽造パスポートを持って、妻や友人達と雪深い村Megeveに潜んでいた奇妙に平和な日々を。そして、とうとう思い出す。ある日ロシア人の怪しい青年に導かれて妻とともに国境を超えようとして、そして結局超えることが出来ずに記憶が途絶えたことを。このシーンの見渡す限りの雪面の、目にささるような白さはなかなか鮮烈です。 終盤近く不思議な章がある。とある女性がふとした拍子に彼らを思い出す。PedroとDeniseというカップルが昔いたことを。なかなか似合いのカップルだったな、と思いながら、思考は別の方向に流れてしまう。サイゴン通りに住むこの女性は誰だったんだろう。 ・・・ 主人公の実の名はPedro。ドミニカ人Pedroの偽造パスポートを持った、Pedro Sternというギリシャ人だった。さんざん遠回りをした後にようやくたどり着いた名前と国籍が実は偽装だった、という仕掛けにさらなる面白さがあるのだが、全然関係ないけれど、このことで1冊の本を思い出す。ブライス・エチェニケ(Alfredo Bryce Echenique)というペルー人作家の「Tantas Veces Pedro」。「幾たびもペドロ」というステキなタイトルで日本語版も出ている。これがまた、モディアノとは似ても似つかない狂騒的な世界ながら、自分探しのスパイラルにはまり込んだ男ペドロのおかしくも悲痛な(?)モノローグのみから成り立っている作品で、読んでいる方も頭がおかしくなりながらもすっかりやみつきになってしまう面白さなのです。 ![]()
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