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去年ヒースロー空港で「BUY 1 GET 1」(2冊で1冊)キャンペーンに乗せられて買ったペーパーバック。いかにも東欧チックな表紙のイラストがとてもかわいらしくて、思わず手にしたものだ。本書はイギリスの地方都市(ピーターボロー)を舞台に、ウクライナ系移民家族に起こったある事件を描いたユーモラスな物語。主人公はNadia。40代後半の仕事を持つ女性で、夫(Mike)、娘(Anna)の3人暮らし。Nadiaには年の離れたVeraという姉がいる。Veraには娘がふたり。離婚をしていて夫はいない。この姉妹はしばらく前に母親を病気で亡くしており、実家には84歳の父ニコライがひとりで暮らしていた。ついでに言うとNadiaとVeraの間にはいろいろあって、姉妹仲はうまく行っていなかった。 物語は父から娘Nadiaへの電話で幕を上げる。父は娘に宣言する。「結婚しようと思っているんだ」と。84歳の結婚はイギリスでも物議をかもすようだが、詳細を追求してブツギはさらに大きくなる。なぜなら、その結婚相手は36歳のウクライナ女性で、ウクライナに住んでいてビザはないとのこと。しかも息子がひとりいるという。 当然周囲はこの結婚に反対するが(金銭目当て、ビザ目当てに違いない!)、外野の反対意見もむなしく話はとんとんと進んでしまい、あっという間に花嫁がその息子とともに迎え入れられることになる。 ここまでのあらすじは背表紙に掲載されていたので読む前から了解していたが、この後はウクライナとイギリスの心温まる交流が展開されるのかと思っていたら、そこはイギリス発の辛口ユーモアでちょっと違っていた。 罪の意識があるせいか、父はなかなか花嫁を娘達に紹介してくれなかったが、やっと会ってみると大変なグラマラス美人。しかも、わざわざ自分をいつわる性格ではないので、大変な強欲であることもほどなく露呈。そして、色ボケで結婚してしまった84歳の父が大変な目に遭う、というお話である。このお父さんがまた、カクシャクとした元気で変わり者のおじいさんで、さんざんな目に遭いながらも負けてはいない食わせものです。 一家を上げての大騒ぎに巻き込まれていくうちに、母の思い出があったり、姉妹の間にあったわだかまりがほぐれていったり、一家が戦争を生き延びて祖国を捨て、イギリスに移り住むまでの歴史が明かされたりする。 そして日頃リベラル思想を標榜し、移民の味方という立場をとっていたNadiaの心の葛藤があったりもする。(自身移民2世という立場だし。)そんなNadiaを見守るMikeは、主要登場人物の中で唯一ウクライナの血を受けていない存在。このMikeは父ニコライのとても良い話し相手でもあり、良きダンナさんだ。イギリス版マスオさんだな。 一方、作品のブラックな魅力になっているのはウクライナからやって来た悪妻Valentinaの悪女ぶりである。彼女の強欲ぶりは、浅ましくストレートで、それが片言の不自由な英語によってさらに凄み(とおかしさ)を帯びる。84歳の夫を死に損ないと呼ばわり、ほとんど暴力をふるい、しかも夫以外の男と見れば色仕掛けにも余念がない。おっとりマスオさんのMikeすら、最初の対面では魅了されかかったくらいの威力である。そのわりに息子のスタニスラフは結構素直でいい子なんだけど。 Valentinaは84歳の夫の生き血を吸ってさらに太っていくのだが、太れば太るほど女っぷりを上げて男を魅了するという法則がそこには存在している。(世の女性の皆さん、ダイエットばかりしている場合ではありません。) タイトルの「トラクター」は、父ニコライが元エンジニアで、余生の仕事として東欧のトラクターの歴史を執筆しているところから来るのだが(なので、作品中時々この原稿が挟まれる・・が正直この部分はちょっと退屈で、そのために何日も読書が中座してしまうこともあった。)、そして、彼はどんなに虐待されても情熱を込めて本を書き続け、終盤この原稿は完成を見ることになるのだが、「トラクター」って実はValentinaの比喩なのかもしれません。 ウクライナ人同士の会話では、Mikeの名前までウクライナ語的に語尾が変換されているシーンがあって、これってヨーロッパでよく体験する楽しいことのひとつです。そういえば、知り合いのスペイン人は、フランス人ギョームのことを、「ギジェルモ!」とスペイン語変換してはばからず(わたし達日本人からしたら全く別の名前ですよね)、ギョームは呼ばれるたびにちょっとだけむっとしていたような気もします。 作品を通して、こんなにさんざんウクライナに触れていながら、最後まで地図でウクライナの場所を確認しておらず、作者やウクライナの人々に対して心苦しく思っています。あとでネットで確認します! ※後日ロシアとその周辺諸国に詳しい友人と会いました。彼女によるとウクライナは豊かな穀倉地帯だそうです。(あと、キエフ・バレエ団で有名だったんですね!)それを聞いて、作中描かれている、国を捨てた人々の祖国への思いが一層しのばれるように思いました。 女は「女」をまとっている。かつてボーヴォワールが世間を騒がせた有名なフレーズ「女は女に生まれるのではない、女になるのだ」(だっけ?枝葉は違うかもしれないが大差はないはず)とニュアンスや着地点はかなり違うけれど、前提は似ている。本書はこの現代版「第二の性」的出発点に立って、女装タイプを大きく9つ(または10)に分けて小気味良いリズムでその実態を解説したり分析ししたりしたもの。内容は「女装する女」「スピリチュアルな女」「和風の女」「ノスタルジー・ニッポンに遊ぶ女」「ロハス、エコ女」「デイリーエクササイズな女」「大人の女になりたい女」「表現する女」「子供化する女」「バーター親孝行な女」。そして、しりあがり寿さんのイラストが各章のカバーを飾っており、結構クスリと笑えるひとコママンガになっている。 マンガ「働きマン」(安野モヨコ原作)のテレビドラマ化はどこで間違ってしまったのか?原作が持つ仕事女のリアリティーは、主人公が彼氏とデートしたり、イケメンと会ったりしたときに女っぷりを上げるための「女スイッチ入ります」の方にあったんだそうだが。テレビドラマの企画制作者はたいてい男が多いだろうから、女性の内面には(隠れていたとしても)「女」性があることを信じて疑わなかったために、完全な誤読の上に立った「男スイッチ入ります」というセリフを主人公に何度も叫ばせてしまった。・・・んだそうだ。なーるほど。 かつての自分にはおやじギャルの側面があったかもしれないが、時代はさらにずっと先に進んでいるようだ。たしかに「女文化をネタ」に毎日の人生を演出するのは楽しいだろう。残念ながら今の私は上記カテゴリーのどれにも当てはまらないような気がしているが(あ、でもこのブログを書いているから「表現する女」かな?)、たまには女スイッチを入れてみよう。 これを書いてて思い出したけど、先日(3/7)東京ガールズコレクションに行って来た!プレスの立場で行ったから良かったものの、一般客に混じったらいたたまれないくらい浮いたに違いない。というくらい、観客席はギャル、ギャル、ギャル、そしてまたギャルの大洪水。ごくまれに、彼氏として連れて来られたに違いない男子も見かけることがあったが、まるで白い羊の群れにまぎれた黒羊のように、やっぱりわが身の置き所に窮しているように見えた。そして、会場は「これでもか!!」というくらい、女の子の表現が満載。キラキラ、ピンク、ハート、花模様・・・。私もいつの間にかショーのコーフンに巻き込まれ、魂の底から叫んでいました。「そう、そう!わたしはこれが欲しかったんだわ!」そう叫ぶわたしの中には、まさにひとりのオカマが潜んでいたような気がします。 この本で言いたいことは、誤解を恐れずに言えば、女はみんなオカマだということです。そして、それは(ある意味)正しいのだと思います。 モラヴィアは大変好きな作家。かつては日本でも人気の時があったようだけど、最近では大変残念なことに、代表作である「倦怠」と「無関心な人々」しかたぶん発行されていないような状況だ。だから、スペインで本屋に行くと必ず彼の作品を探してしまう。スペインではまだまだ棚に置かれているし(たぶん、かの地ではまだ文芸というジャンルが幅を効かせているから、という理由もあるだろう)、それにスペイン語翻訳はたぶん原作のイタリア語からかなり近いはずな上、邦訳されていない作品に出会うことも出来る。そして、モラヴィアは大変多作な作家である。わたしはこれまでの人生できっと十指に近い(または余る)作品を読んできたけれど、それでもまだ探す楽しみがたっぷりある。今回読書したのは、ゴダールの「軽蔑」で結構知られていると思われる作品だ。9月にバルセロナに行った際、お気に入りの書店で見つけてきた。モラヴィアは映画の原作や脚本でも大変活躍した人だけど、「軽蔑」は映画のために書かれたものではなく、映画に先立ち1954年に発表されている。 映画でもかなりのモラヴィアトーンが全編を覆っているのだが、なんせブリジット・バルドーの美しさが目を見張るほど際立っており、どうしてもその印象が強い。(映画もすばらしいです。) どんなお話かというと、登場するのは若手の脚本家である主人公のリカルド、妻のエミリア、そして映画プロデューサーのバティスタ。ストーリーはほとんどこの3人によって進行する。それから、チョイ役で登場するドイツ人の映画監督ラインゴールド、こちらもかなり強烈な個性を放っているし、作品上なくてはならない存在だ。 リカルドはややトウの立ちかかった文学青年で、本当は演劇の脚本を続けて行きたかったのだが、妻との幸せな生活を守るために、本意ではないけれど金になる映画の仕事に手を染める。そのおかげで、エミリアが涙ぐましいほどに切望していたマイホームも手に入れて、ふたりはさらに幸せになる予定だった。しかし、そうこうしているうちに、確信していたはずの妻の愛が心もとなくなり、気がつくとその愛が「軽蔑」に変わっている・・・。その理由は最後まで明確には明かされず、物語の全編がリカルドの不毛な自問自答から成り立つ。「なぜ?」のめくるめくスパイラルが、前半はローマの都市生活の中で、後半はカプリの目のさめるような青の中で展開されることになる。 いつもながら、物語の構成もしっかりしており、悶々としたモノローグを読み進めながら、読者は飽きることもない。終盤にはちょっとしたサプライズも用意されている・・。(ちょっとコワイです。) モラヴィアの作品は全てが全てそうだけど(アフリカの旅を綴ったエッセイだけが例外で)、その悪意を孕んだ冷徹な人間観察が、ぞくぞくするほど面白い。写真を見ると、晩年のものだからなおさらかもしれないけれど、一筋縄ではいかないような面持ちが、わたしごときにはとても太刀打ちできない強烈なじいさん、という印象だ。 そして、こちらは映画の方の「軽蔑」。何度も見たい作品なので、購入している。ゴダール初期の作品で、原作を読んだあとに改めて考えると、原作を丁寧に解釈していることが分かる。大変美しい映画です。 ![]() 忙殺の日々を過ごしているうちに、最後に投稿してからこんなに日数が経ってしまった。投稿しなかっただけでなく、長らく読書の喜びから遠く隔たっていたのだ。そして、忙殺の日々から解放されて真っ先に読んだのがこちらの本。アマゾンで衝動買いだ。 「女はいまや、ひとりで地球上のどこにだって行ける。(ザンビアだろうがハイチだろうがひとりで行ける。)女ひとりの外食もまた、ごく普通の行為。しかし、その行き場が寿司屋となると、相変わらず敷居が高い。なぜか?」 という問いかけから始まるこの企画。正直、すし屋は死角というか、ひとりで入ろうなんて考えたこともなかったけれど(ひとりランチで回転寿司には行くぞ)、たっしかに敷居が高いな、なんでだろ、ということで読んでみる。 別の章で語られる定義によれば、「単なる外食屋でありながら、職人と常連、作法と根深い日本的男社会の和によって独特の空間が展開されていく中(=つまり寿司屋)に、ヘンな女ひとりがフリで入っていくところの摩擦」を描いたエッセイとも。または、「日常に最も近くて困難な“冒険”」とも名づけている。 著者の湯山さんは40代、シングル、女性。「クラブカルチャー」などの本も執筆しているかなりエッジーでなおかつ聡明な方かと思われる。彼女はある日、疲労のために判断力が鈍ったせいか、ふとひとりで立ち寄ってしまった高級目なすし屋のカウンターで、かなりいたたまれない経験をしたことがキッカケとなり、女ひとりで高級すし屋へ行ってはコラムを書く、という雑誌の企画を受け持つことになる。その連載をまとめたのが本書だ。 その後ミシュランの星とりでさらに話題になった銀座「すきやばし次郎」や、軍艦巻きで有名な銀座の「久兵衛」、青山「NOBU TOKYO」、上野毛「あら輝」などなどの高級寿司店に、女ひとりで颯爽と出向いて行っては(予約をして、だけど)、軽快でユーモラスにして鋭い筆致でばんばん切り込む。 その観察眼はまずすし屋がたたずむ背景を語ることから始まり(東銀座、六本木ヒルズ、奥沢、浅草などなど)、すし屋の高い敷居をまたいだ後は、すし屋という独特な空間にうごめく人間観察に余念がない。その生態観察の楽しいこと! そしてもちろん板前さんやご主人との緊張感をはらんだやりとりがあり、そして味覚の(めくるめく)体験がある。 それにね、笑いながら読んでいると、いつのまにやら最初の命題の「なぜか?」の回答もおのずと見えて来るんである。その上、なぜ寿司職人には女性がいないのか、の理由についても。(手が暖かいので、云々、という例の屁理屈ではなくて。)その理由に行き当たると、一応フェミニストで、日本の女性の社会進出の遅れを嘆く私ではありますが、やっぱ寿司職人は男の聖域でもいいのかも、と思えて来る。 一見すし屋をテーマにしていながら、これはむしろ「すし屋」という極上にして独特のフィルターを透かすと見えてくるソシオロジーの一片と呼んだら良いかも。 読後感は、しっかしたまには金に糸目をつけずに高級寿司が食べてみたいものだ、というところでした! 意味はといえば「ウチのクレイジー娘」かな。そういえば昔「家の馬鹿息子」(サルトル)という本もありましたが。今回のスペイン行きの機上のお供はこの1冊に決まり。Rosa Monteroはスペインの文壇で活躍する作家兼ジャーナリスト。マドリッド出身で作品の多くがマドリッドを舞台にしているため、親しみを感じてこれまでにも何冊か彼女の作品を読んできた。(「Bella y Oscura」「La Hija del Canibal」など。)今回のこちらは数年前に買ってあったもので、フィクションではなくエッセイである。表紙とタイトル、それに背表紙のテキストから、文学少女で変わり者だった子供時代の回想なのかな、と思っていたけれど、読んでみたら、もっと硬派な文学論だった。(でも、表紙の写真は作家本人の子供時代のようである。) 内容は文学について、創作について、そのパッションと狂気についての作者の考察である。そうはいっても最初の1行が「わたしは、その時々の男と著作によって自分の人生を整理するクセがある」というものだから、堅苦しい作品ではなく、むしろ本音トークに近い。 自らの創作活動を振り返るとともに、多くの作家や作品が登場するので、それらの名前を浴びているだけで、本好きとしては幸せ。イタロ・カルビーノ、アルチュール・ランボー、メルヴィル、ゲーテ、「ドン・キホーテ」「アンナ・カレーニナ」、「シエラザード」、フォークナー、ポール・セロー、カポーティ、カフカ、ジョージ・エリオット、カーソン・マッカラーズ、ユルスナール、ゾラ、フィリップ・K・ディック、ナボコフ、などなどなど。 自作の「Bella y Oscura」の誕生秘話もなかなか面白く(ボストンで夕暮れ時に道に迷った怖い思い出の描写は、昔々読んだこの本の風景をありありと思い出させてくれた)、カーソン・マッカラーズの「悲しき酒場の唄」誕生についてのくだりも面白い。ブルックリンのカフェで見かけた奇妙なカップル-大柄で屈強な女性と、その足元にまつわりついているせむしの小男-がこの風変わりな作品の強い引き金になったという。Rosaは別のページで、「それにしても、あのブルックリンのカフェにいた“現実の”大女と小男はその後どうなったんだろう」と思いを馳せる。 スペインの女性作家代表のひとりとしての役割を担わされてきたであろう彼女だけに、「女性文学」というくくりに対する憤りも強い。「女性文学」なんてカテゴリーはナンセンス、それではなぜ世の中に「男性文学」というジャンルはないのか?・・・まさにその通り。 おんなじ考え方の延長で、わたしはあんまり「ロシア文学」「フランス文学」といった地理的分類も好きではない。もちろん、便宜上分類は必要だからしかたないし、国籍が違えば人のプロトタイプの違いもあるのだから、全くナンセンスとはいえないけれど、例えばわたしは「スペイン文学が好き」かと聞かれればよく分からないし。 世の中では作家や評論家がもっとステキな文学分類の試みをさんざんしていて、そのことについても後半に触れられる。 「女性文学」への憤りと同様にRosa Monteroは「作家の妻」の存在に対してもシンラツだ。「作家の妻」代表格として上げられるのはスティーブンソン(「ジキルとハイド」)の妻や、トルストイの妻など。双方とも悪妻として歴史に名を残しながら、夫の出世のために自らを犠牲にした女性だけれど・・それにしてもスティーブンソンの奥さん(Fanny Vandegriftという名前)は悪評とはウラハラにひょっとしてすごい進歩的な女性だったみたい。(3回冒険的な結婚をしていて、回を重ねるごとに夫が画期的に若くなる。)ふーん、と感心するような、文学エピソードも満載。 小説は「都市」のようなもの、という比喩も良い。無軌道に増殖していくものを、なんとか区画整理しようという(不可能な)試み。 自身ジャーナリストでもある彼女が「文学とジャーナリズム」の違いについて云々するくだりも面白い。ジャーナリストは「自分がすでに知っていることについて書く」職業だが、文学は「自分が知らないということを知っていること、について書く」営みだと。 「La Loca de la Casa」は作家の頭の中に住んでいる小鬼(daimon)のようなものである。「小人」のイメージにとらわれ続けている彼女としては(作品にも必ず「小人」が潜んでいる。)、そのイメージはたやすく「小人」とオーバーラップする。そして、お気に入りの一方には「クジラ」がいる。 イタロ・カルビーノ経由で知ったという「湖に恋をしてしまう王様」の話がおかしくもやるせなく、とても魅力的。それから、最終章で語られる修道女の小話も非常に良い。 ところで、Rosa Monteroはこの作品の中にひとつのしかけをしている。それは3度語られることになる、彼女自身のかつてのアバンチュールについてである。時は1974年。フランコ政権崩壊前夜のマドリッド。国外から流れてくる自由の風と暗く重苦しい空気の狭間で、映画雑誌のエディターとして、23歳の熱い夏を生きていた彼女の出会った恋の話。 そんなこんなで「やっぱり物語って、文学って本当に素晴らしいな」と、自らの「本の虫」加減(スペイン語ではBicho lectorっていうんだ。Bicho=やっぱり虫)をしみじみと肯定していると、いつのまにかもうすぐ成田に着陸なのであった。 ・・・ *カーソン・マッカラーズ 「悲しき酒場の唄」 →こちらは昔読んだ「La Hija del Canibal」 ![]() こちらはフランス語の原版だけど、「暗いブティック通り」というタイトルで日本語訳も出版されている。「冬のソナタ」の原作者は、この作品からあのヒット作を思いついたらしい。とはいえ、主人公が記憶喪失者であるということのほかに、きっとそんなに共通点はないと思う。(「冬ソナ」をちゃんと知らないので断言は控えますが!)フランスには「モディアノ中毒」という言葉がある、と聞いて以来、この表現が大変気に入っているが、なにせこの独特の宙ぶらりん感はハマるとほんとに中毒になる。モディアノの作品は常にミステリ(それも極上の)の様相を帯びてはいるけれど、腑に落ちる推理も、明快な事件解決も待ってはいないので、ものごとが白黒ハッキリしてないと気が済まない人には不向きです。モディアノの描く世界はニュアンスに満ち、影や気配が彷徨し、時がもつれ、道に迷い、ふっつりと明かりが消えて、突然置いてきぼりにされる。 この作品の主人公中年男のGuyは過去の記憶を失っている。パリの探偵事務所で働いていたが、ボスの引退で閉業したのを機に自分の過去を探り始める。徐々に追い詰めていく過去の断片は、しかし最後までひとつの絵にはならない。過去の自分と思われるイマージュは、時に三人称で表現されて、それが記憶なのかフィクションなのか定かでない。そして時々それは誰か他人の記憶の片隅にある自分であったりもする。 「国境」という言葉がちらつく。国境で何かが起こったらしいのだ。そして、妻だったらしい女性Deniseとの別れもおそらく。彼は少しずつ思い出す。偽造パスポートを持って、妻や友人達と雪深い村Megeveに潜んでいた奇妙に平和な日々を。そして、とうとう思い出す。ある日ロシア人の怪しい青年に導かれて妻とともに国境を超えようとして、そして結局超えることが出来ずに記憶が途絶えたことを。このシーンの見渡す限りの雪面の、目にささるような白さはなかなか鮮烈です。 終盤近く不思議な章がある。とある女性がふとした拍子に彼らを思い出す。PedroとDeniseというカップルが昔いたことを。なかなか似合いのカップルだったな、と思いながら、思考は別の方向に流れてしまう。サイゴン通りに住むこの女性は誰だったんだろう。 ・・・ 主人公の実の名はPedro。ドミニカ人Pedroの偽造パスポートを持った、Pedro Sternというギリシャ人だった。さんざん遠回りをした後にようやくたどり着いた名前と国籍が実は偽装だった、という仕掛けにさらなる面白さがあるのだが、全然関係ないけれど、このことで1冊の本を思い出す。ブライス・エチェニケ(Alfredo Bryce Echenique)というペルー人作家の「Tantas Veces Pedro」。「幾たびもペドロ」というステキなタイトルで日本語版も出ている。これがまた、モディアノとは似ても似つかない狂騒的な世界ながら、自分探しのスパイラルにはまり込んだ男ペドロのおかしくも悲痛な(?)モノローグのみから成り立っている作品で、読んでいる方も頭がおかしくなりながらもすっかりやみつきになってしまう面白さなのです。 ![]() タイトルが最高にクール!と以前から思っていて、いつか読みたい、と思っていたミステリーだが、このたびの休暇のお供として、サントリーニ島のビーチでマグロのように横たわりながらとうとう読んだ1冊。サイバーな響きのある「F」の意味するところを知ることが最大の関心だったが、正解はわたしの浅はかな予想や知識の範疇をまったく超えたものだったので大変満足だ。 世の中ではこの作家の作品は「理科系ミステリー」という分類をされているらしくて、ご本人も工学博士としてどこかの大学で教鞭をとっており、またこの作品もコンピューターやらバーチャルリアリティやらのふんだんな知識が前提になっている。正直言って解説っぽいくだりが随所にあってちょっとしつこいような気もしたけれど(きっと編集者が介在してるんだろうな、と思った)、よく見てみたらこの作品が世の中に出たのは95年。この時代に読んでいたら、わたしはちんぷんかんぷんだったかも。 なんといってもタイトルが冷徹でカッコイイので、作品もそうなのかと思ったら、こちらは意外と結構マンガチック。主人公(と呼んでいいのか)の天才少女・真賀田四季(マガタ・シキ)の設定なんてまさにそう。対するシロウト探偵の犀川教授と女子大生の西之園萌絵の設定は、やはりマンガチックでキャラクターが強調されてはいながらも、ものすごく魅力的、というわけでもなく(個人的な意見です)、意図は分かるんだが正直言って人物設定や描写についてはあまりクールとは言いがたいかも。(あくまで個人的な意見です。)オトナの女性を描かない(描きたくない)ところもいわゆる「理科系」?(すみません!) ストーリーはいわゆる密室殺人もので、孤島における密閉された研究所の、さらに密閉・管理された“開かずの間”(ドアの色はもちろん黄色!)で起こる、いわば三重密室殺人だ。地理的構造もイレコ型なら、トリックの方も・・。あ、こちらはネタバレになるので、書かないでおこう。 最初の章で真賀田四季が口にするセリフ「7だけが孤独な数字。そしてBとDも・・。」という謎かけが、その後の読者を引っ張り続けて気がつくと最終章まで気分はノンストップ。 8月の訪れとともにギリシャに行ってきた。生まれて初めてのギリシャ、しかも目指すはサントリーニ島である。(遠かった・・。)いつもはどの地に行っても(文字が読めない国でも)本を買いあさる性分なのに、エーゲ海に浮かぶ真珠のようにラブリーなこの島では、さすがに本屋に足を踏み入れることもなかった。そのためか、帰りのヒースロー空港で、埋め合わせのように買ったのが、「2冊で1冊分のプライス」キャンペーンで見つけたこちらの2冊。「The Messenger of Athens」(アテネよりの使者、みたいなタイトル)は、「アテネ」つながりで思わず手にとった1冊。著者はAnne Zouroudiという人。難しい名前だけど、ギリシャ人だろうか?空港でのベストセラーランキングにもランクイン。若い女性の死体がエーゲ海のとある島で発見されることから始まる、ノワールなミステリー小説のようだ。サントリーニ島には死体発見は似合わないけど、あまりの美しさに、ひょっとして私たちはもう死んでいるのでは、という疑問が投げかけられるひと幕もありました。 もう1冊はMarina Lewyckaという、どう発音していいか分からない、こちらも負けじとエキゾチックな作家による小説。わたしにとってロンドンは食べるにも読むにも移民カルチャーに限る!のであるが、こちらはお父さんがウクライナの女性と再婚することから展開されるハートウォーミングなコメディのよう。 さて、いつ読もうか。(もう夏休みは終わっちゃったし。)それが問題だ。 表紙の絵が醸し出す空気からはとても実用書とは思えないのだが(思わずラ・トゥールの「いかさま師」を思い出しました!)、サブタイトルに「嘘とお金のさじかげんがわかる、法律と会計の本」とあって、意外とビジネス書なのかな、とも思わせる。人間を惑わせ、人類史上常に人間ドラマの二大主題として君臨し続けてきた「お金」と「嘘」、その後ろ暗い、なんだか「隠微」な感じがプンプンして、とっても面白そう!と思ってアマゾンをぶらぶらしていた時に衝動買いしました。読んでみると若手の税理士さんが書いたもので、論理は大変明確。隠微なムードなどまったくない代わりに、随所にユーモアも散りばめられており、クスクスと笑いながら読みました。 この本の出発点は、「そもそも税務とは、嘘とお金の論理学である」というところから出発している。オカネもウソも人間の欲求に端を発していることから、まずはマズローの欲求五段階説を持ち出し、ウソとオカネをポジショニング。「金持ち」「貧乏人」「正直者」「嘘つき」がマトリックス化されていて、これって「金持ち父さん貧乏父さん」?(読んでいませんが。) 「バレない嘘は嘘ではないのか」という命題を提示し、「真実」と「事実」の違いを法律やらいろんな観点から考察し、そもそもお金とは、を哲学し(1万円札の値段は20円なんですって!)、「権利」と「利益」はどちらも「利」の字が付くんだね、ということを気づかせ、そして簿記の基本中基本の講釈もある。 正直なところ、これまで歩んで来た人生で初めて簿記ってものに興味を持ちました。それだけでもこの本に感謝!である。 嘘の反対は本当のこと、ではなくて、「恥」である、というのもまさにご明察。 ウソも付き通せば事実になる? 国語辞典によると、嘘とは<事実>でないこと。間違いとは<真実>と違うこと。 ある人の言葉。「捏造とは傲慢から生まれる。創造は絶望から生まれる。」(おじさんが朝礼で使いたいフレーズかも。) 「バレたら脱税、バレなければ節税」?などという迷言が出てきたり、 「=(イコール)」という記号の誕生は意外に最近で16世紀のことである、なんていう雑学も。 ついでに言うと、ウソは人間だけの特権ではないのではと思います。少なくともウチの犬はウソ、というかごまかそうとすることありましたよ。いつもバレバレだったけど。五段階欲求でも、ウソはかなり低次元の欲求に関わるものだし、ありえることかも。 それにしても、わたしには最初からお金に対するメンタルブロックなんてないと思うんだけどなー。あわよくば「稼ぐ」よりは「儲ける」ニュアンスで、お金持ちになりたいと日々願っています。 ※ラ・トゥールの「いかさま師」ってなに?と思った人はこちらも読んでくださるとうれしいです。 イサベル・アジェンデは大好きな作家である。処女作「La Casa de los Espiritus(精霊達の家)」を夢中になって読み干して以来、最も好きな作家のひとりと言っても良い。その美しい文体に触れるたびに、スペイン語が読めて良かった、と心から思ってしまう。もちろん邦訳でも、その素晴らしさはたっぷり堪能できると思うけどね。その後「Eva Luna」「Cuentos de Eva Luna」などなどと読んで来た人生の中、今回久々に再会したイサベル・アジェンデはいわゆるフィクションではなくて、エッセイに分類される作品だ。タイトルは訳すとすると「発明された」つまり「つくりものの」とか「虚構の」わたしの故国・・という感じ。イサベル・アジェンデはチリの人なので、故国とはチリのことである。幼少の頃の遠い記憶ではありながら、「チリのアジェンデ政権」というフレーズが私の頭にはぼんやり刻み込まれているので、イサベル・アジェンデとチリもすんなり結びつく。最近知ったことだけど、実際にイサベルはこのアジェンデ大統領と親戚筋だそうである。 現代史上ほんのつかの間輝いた短命の社会主義政権については、きっとある程度以上の年齢の人は知っているかもしれないが、チリが世界の表舞台に登場することは少なく、日本人の私たちにとっては一層影の薄い存在だ。ここ数年チリワインはすっかりおなじみになったけれど、ほかにチリといって何を連想するだろうか? イースター島も実はチリ領なんだけど(と本書でも語られる)、知らない人も多いのでは? チリ人といって思い浮かぶ人もあまり多くないが、日本では数年前話題になったアニータという悪女(?)がいましたっけ。この本の中でイサベル・アジェンデが描くチリ女性の典型に、アニータ嬢は結構近いかも。いわく、こと恋愛となったら弾丸のようなパワーで突き進むので男はたじたじ、とのこと。 日本ではそんなに広く知られていないかもしれないけれど、ノーベル賞を受賞した詩人のパブロ・ネルーダもチリ人だ。映画「イル・ポスティーノ」で描かれていたあの粋な亡命詩人です。チリという国にとってパブロ・ネルーダの存在は絶大だったようで、その記憶は本書のあちこちにも散りばめられている。 前置きがすっかりながくなってしまったけれど、本書はイサベル・アジェンデがとあるレクチャーで受けた質問に端を発する。それは「あなたにとってノスタルジーとは何ですか」というもので、回答への試みが一冊の本になってしまった。 人生のほとんどを外国人として異国に暮らしてきたイサベルは、この問いに長い長い思いをめぐらす。外交官の娘として異国の地に生まれたイサベルは、その後も外交官の父(このときは継父)の娘として、妻となり母となってからは政変から逃れる身として、そして最後は幸せな二度目の結婚を果たして国境を渡り、人生のほとんどを異国で暮らすことになる。 イサベルにとっての故国は異国の地から思い描くフィクションでもあったが、同時に故国は祖父の住む土地であり、祖父と過ごした年月でもある。 そう、この作品で忘れられないのはイサベルの祖父の存在なのだった。かくしゃくとして100歳近くまで生きた祖父。生粋の男性優位主義者で、それがあまりにも自然であったため、マチスモという単語があることを知って大笑いをした祖父。本の虫だった賢いイサベルに、多くの物語や知識を伝えた祖父。南アメリカ大陸の未踏の地に孫娘を連れてワイルドな旅をした祖父。当時のチリはアメリカとは違って上流社会の男性にDIYのコンセプトなんてまったくなかったのに、大工仕事やラジオの組み立てをして油まみれになるのが大好きだった風変わりな祖父。 「La Casa de los Espiritus(精霊達の家)」が生まれる経緯も感動的だ。独裁政権を逃れて家族とともにベネズエラに亡命した後、辛い日々の中で祈るように紡いだ物語なのだ。そして、彼女自身も薄紙をはぐようにゆっくりと再生していく。その頃遠い祖国では、祖父がその人生を終えていたのだが。 その後の彼女は最初の夫と離婚、子どもの頃から予告されていた運命の男性と遅まきながら出会う。チリ人女性の弾丸パワーを発揮して、結婚。お相手のWillieはかなりヒッピーで異文化のアメリカ人男性だ。現在はサンフランシスコに住んでいて時々チリを訪れる生活だそうなので、相変わらずチリは遠くにあって思う存在である。 本書では娘Paulaの死については多くは語られていない。2度目の幸せな結婚を果たした後、イサベルは娘の死という試練に見舞われることになる。その経験をもとに書かれた「Paula」も非常に美しい作品だそうで、是非読んでみたい。 Tags:チリ イサベル・アジェンデ
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